脳科学的に解明されている自我と哲学的に考えられている自我の違い

 

私はいったい何者なのだろう」このことは、誰もが人生で、1度は考えたことがあるのではないでしょうか。

 

そして、人生で何度か、自我に対する戸惑いを感じたという人も多いと思います。

 

そこで、「自我」というものについて、脳科学的な観点・哲学的な観点それぞれから考えていきたいと思います。

 

脳科学的な観点から見た「自我」とは

脳科学的な観点から見た自我は、「脳内にある、意識を司る部分」によってコントロールされているものだと言われています。

 

つまり、「私が何者であるか」は、脳がすべてコントロールしているという考えなのです。
まさに、脳科学とNLP 人の思考はパターン化されている?のです。

脳によってコントロールされている自我は、私たちが意識している領域だけでなく、無意識の領域も含まれたものです。

 

無意識の領域にあるものは、日常生活の中ではなかなか認知することはできませんね。瞑想を日課にしたりしない限り、無意識の領域にアクセスすることは難しいと言われています。

 

言い換えれば、普通に日常生活を送るだけでは、「自分が何者かを知ることは難しい」と言えます。だからこそ、瞑想(マインドフルネス)を行い無意識をあぶり出す。

 

人間の脳は小さな宇宙のようなもので、全てを理解し、コントロールすることは簡単ではありません。そのような脳に支配されている「自我」もまた、正しく認知することは簡単ではありません。

 

「私はこういう人間だ」と思い込んでいても、実は、「自分が知らなかった自分」がまだまだ脳内にたくさん眠っているということですね。

 

 

哲学的な観点から見た「自我」とは

 

では、「自我」を、哲学的な観点から見ると、どのような解釈になるのでしょうか。

 

哲学的な観点から見た自我は、「脳」ではなく「精神」に支配されているとされています。「脳」だとどこか物質的な印象ですが、「精神」だと抽象的な印象がしますね。

 

実のところ、「脳」も「精神」も同じような性質を持ったものであると言われています。でも、「脳」は具体的に形のあるもので、「精神」は実体のないものです。

 

「脳」も「精神」も、本質的にはほぼ同じものだけれど、「形のあるものか、ないものか」という違いがあるということですね。

 

哲学的な観点から見た自我には実態がない

この点から考えていくと、哲学的な観点から見た自我は、「目で見ることのできない、実体のないもの」だと解釈できます。

 

脳のように、「どの部分がどんな感情を司るのか」という、目に見える「証拠」のようなものがないのです。

 

そのため、哲学的な観点から見た自我について、「物質的な証拠がないので、自我というものが存在するのかどうかすら怪しい」と言っている人もいるようです。

 

ただ、人の精神性というものは、その人の日頃の言動や行動に現れるものです。強いて言うなら、この「日頃の行動や言動」こそが、その人の自我を証明する「形」であると言えるかもしれません。

 

哲学的な観点から見た自我は、その人の言動や行動から読み解くことができると言えそうですね。

 

「自我」に関して、明確な答えを出すには

さて、では結局のところ、「自我」の正体はどのように見極めれば良いのでしょうか。

 

自我というものを正しく見極め、コントロールするためには、脳科学・哲学両方の観点を大切にした方が良いと言われています。

 

脳科学の観点からだけ、哲学の観点からだけだと、どうしても解釈が偏ってしまいますよね。

 

まず、脳科学の観点から見た「自我」を知るためには、「無意識」の領域にアクセスすることが不可欠です。瞑想などで脳を落ち着ける習慣を付け、無意識の領域から来る「内なる声」に耳を傾ける必要があります。

 

日頃、感情に振り回されやすい人は、脳をコントロールできていない可能性があります。そのため、このタイプの人は、脳の興奮を鎮める習慣を付け、脳を落ち着けるように意識することが必要です。

 

それによって、脳が落ち着きを取り戻し、「無意識」の領域にアクセスしやすくなっていきます。また、哲学的な観点から見た「自我」を知るためには、自分の精神性に目を向ける必要がありますね。

 

先ほどもお話した通り、精神性は、日頃の言動・行動に現れてきます。自分の日頃の言動・行動を客観視する習慣を付けることが第一歩となるでしょう。